保育園を立ち上げた話【その1】

これから少しずつ、11年前に仲間たちと共に立ちあげた保育園の話を書く事にしました。長い長い話になるので、思い出しながら、ゆっくりと……。


12年前のひなまつりの日に次男坊が生まれた。
五つ上の長男の時は世の中まだまだバブリーで、ベビーシッターさんと保育園とで、なんとか大変な時期を乗り越えた。
だが、二人目はそうそうベビーシッターを呼んでもいられない。レギュラーを何本か持っていたので、0歳から保育園に入れるしかない。声優には産休も育休も無い。だけど、区立で0歳児保育をやっている所はほとんど無い。あっても待ち状態で、私みたいな仕事の人は後回し。近所に住む親友の坂本 千夏が子供を通わせている民間の保育園が凄く良いというので、尋ねてみた。


なんで、はじめからそこに決めなかったかというと、千夏がいつも山のような洗濯物を抱えて帰ってきていたから。その保育園では、布おむつを使い、ハイハイする頃には、起きてる時はパンツをはかせている。股関節の動きをよくする為らしい。その子の発育状態に見合った、運動や、動きを促す遊びを取り入れ、保育の柱としていた。言葉も喋れない月齢だから、垂れ流し状態。保育士がそのたびにこまめに衣服を着替えさせる。そして外遊びの豪快さ。ドロドロ汚れと排泄物の臭いでいっぱいの衣類を千夏は毎日、袋パンパンにして帰っていた。
しかも無認可園だから、しょっちゅう、バザーだの祭だのに借り出され、大変そうだった。私にできるのか不安だった。


しかし、そんな不安は見学に行ったその日に吹き飛んでしまった。
小さな一軒家に子供が四、五人。園長とあと二人の保育士が丁寧に愛情深く子供たちを見ていた。こんな都会のど真ん中にあって、なぜかその家には自然な風が流れていた。まだ二ヶ月になったばかりの子の人格を尊重し、この子の生活を大切にしてくれた。人が本来持つ体内時計に逆らわない、生活リズムを大切にしていた。私が疲れてお迎えに行った時には、『お母さん、まあお茶でも一杯飲んで帰りなね。』ふっと肩の力が抜け涙が込み上げてくる事もあった。私たち親子をまるごと包みこんでくれる園だった。
だが、その園は来年、彼が一歳になる年に廃園になるという。もちろん入所する時に説明もあったが、まあ一歳になれば区立に入れるしと簡単に思っていた。でも日ごとに園への愛着が出てきて、できれば、就学前まで、こんな保育の中で育てたいと思うようになった。なんで無くなっちゃうんだよ!
こんな良い保育を無くしちゃ駄目だよ!そんな気持ちを同じくした、仲間と保育士で、とうとう『新園をつくる会』なるものが発足された。


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