保育園を立ち上げた話【その2】

0歳の時、入っていた保育園は、0歳児だけが別棟になっていて、一歳から六歳までは少し離れた場所で、やはり一軒家を改造して保育園にしていた。

この一歳から上の子供たちが、凄かった!え?!東京の子供?!と思う程、いつも裸足でドロドロ。人なつこくて、目がキラキラしていた。こんなにも、たくましく、本当に生きている事を体中で楽しんでいる子供らしい子供を私は東京で見た事がなかった。だからこそ、この保育をもっと知りたい!深く関わりたい気持ちが強くなっていた。しかし次年度から区の方針が変わって、三歳児以上は助成されなくなる為、その園は0〜2歳までの保育園にするという。仕方のない話だった。助成金を貰っている時でさえも、大変な赤字を抱え、親たちがバザーや祭で駆けずり回り、何十年もここの園長は子供たちの為に頑張ってきたのだ。これ以上彼女に園の存続をお願いする事はできなかった。春から行き場所を失う子供たち。いや区立の保育園を望めば入所できたのだろうが、この園と同じ保育内容の園はどこにもない。うちの子はあと二年は見て貰えるけど、この保育は就学前まで受けてこそ、意味があると思った。


これは自分たちで作るしかない。この保育を東京に残したい!


『新園をつくる会』は毎回、保育が終わった8時頃から会議が行われた。
一歩進んだかと思うと二歩も三歩も後退する堂々めぐりの長い長い話し合いだった。


私はまだ立つ事もできない我が子をおぶって参加した。ありがたかったのは子供がグズグズ言わなかった事。誰に抱っこされてもニコニコだった。これはあとで知る事になるのだが、人の体内時計に逆らわず規則正しい生活リズムで寝る、食べる、遊ぶ、この三つがしっかり満たされた子供は訳もなくグズグズ言ったりしない。これは本当にありがたかった。子供に泣かれながらの会議じゃあ、あまりに切ない。


堂々めぐりの話し合いは、お金とか責任の話で行き詰まっていた。ベンツに豪邸〜みたいな親は一人もいない。どちらかといえば、高い保育料を家計から捻り出してでも、この保育のもとで育てたいと思ってる人が多かった。
助成金についても、色々勉強したし、何度も役所に足を運んだ。ただ皆様の税金から助成して頂くという事は本当に大変な事で、その当時は無理だったが、『保育待機児をゼロにしよう』とうたっていた、世田谷区がこれから先、力になってくれそうな感じだった。そこで、助成金が受けられるまでは、参加する世帯が平等にリスクを負う、全員で責任を負う、共同保育所にしようという事になった。保育料も一律。出た赤字も祭やバザーに出店して、あとは全員で折半。設立にあたっての資金は出資金や寄附金を募った。
少しずつ、形が出来てきたのは、もう年も開けてからの事だったように思う。
そこから本格的に園舎になる家探しが始まった。


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